松島の成り立ち

 松島には260余りの島々がありますが、松島が現在のような多島海になったのは、2万年から3万年前の氷河期以降、地殻変動での一部沈下と気候の温暖化に伴う海水面の上昇によるもので、5千年くらい前と考えられています。

 その当時からの地形環境が広い範囲で良好に残されている松島は、近世においては「日本三景」の一つに数えられ、昭和27年に国の特別名称に指定されています。

 

縄文式時代・弥生式時代の松島

松島湾の沿岸には、およそ8千年前(縄文時代)から人が住んでいた場所を示す遺跡(特に貝塚など)がたくさんあり、千葉県や茨城県などとともに、全国有数の数を誇っています。

 中でも海辺にある松島は、野山の動物や木の実などの他に、貝や魚などが手に入りやすいところだったと考えられます。

 貝塚には貝殻ばかりでなく、食べた獣や鳥・魚の骨、木の実の皮、石器、土器、漁をしたときの釣り針や銛など、生活している中で出る様々なゴミが捨てられており、貝塚の発掘によって、その当時の生活を垣間見ることができます。

 松島町の中で、このことがよくわかるのは、西の浜貝塚です。

西の浜貝塚では、生活道具の他に、埋葬された人の骨、貝で作った腕輪や耳飾り、塩を作った土器など、たくさんのものが見つかっています。

 

古墳時代の松島 米作りの「むら」から古墳の「くに」へ

大陸から米作りや金属器などの技術が広まると、人々の生活が安定し始め、人口も増えました。

人々は協力して米を作り、収穫した米を共同の倉庫に納めておくなど、人々が集まって「むら」を作って生活するようになりました。

 むらの人たちの中から指導者が現れ、次第に権力を持ち始めます。

むらの指導者は、やがて周りのむらも支配するような豪族となり、「くに」を作るようになりました。

 このような豪族や地方の有力者が松島周辺の地域にもいたことが、その墓(古墳)と思われるものがいくつか残っていることからわかっています。

 松島中学校の裏には諏訪古墳があります。これは土を高く盛って作られた古墳です。

この他にも、岩山の斜面に横穴を掘って作られた横穴古墳と言われるものがあり、手樽の古浦横穴古墳、竹谷の藤ノ巻横穴古墳、幡谷のえぞ穴古墳、磯崎の館ヶ崎横穴古墳などが、それに当たると思われます。 

 

飛鳥時代・平安時代の松島 陸奥の国の始まり

 645年(大化元年)6月、中大兄皇子と中臣鎌足らは、大きな権力を持っていた豪族の曽我氏を滅ぼして、新しい国づくりを始めました(大化の改新)。

東北地方にも中央の支配力が及び、土地や農民は全て朝廷のものとなりました。

農民には土地を分け与え、その代わりに税を納める仕組みになりました。

 朝廷は地方を国(こく)―郡(ぐん)―里(り)に分けて、支配しようとしました。

東北地方の支配を強化するために陸奥の国府(役所・軍の拠点)多賀城が築かれましたが、松島を含むこの地域は、その周辺の宮城郡に属していたのではないか、と考えられています。

どの里(郷)に属していたかは、わかりません。

この時代には、古くから住んでいた人々と朝廷との戦がありましたが、松島から多賀城へは塩などの物資が運ばれていたということが出土品(製塩土器)などからわかります。

 

鎌倉・室町時代初期の松島

 平安時代の末、東北地方を広く支配していた奥州藤原氏は、源頼朝によって滅ぼされ、松島にも頼朝の家来である相馬氏が地頭としてやってきました。

 鎌倉幕府が滅びると、南北朝の争いの影響が及び、この地域の支配者や寺社にも様々な移り変わりがありました。

 

江戸時代の松島

 瑞巌寺は、もともとは現在のような姿ではありませんでした。

 瑞巌寺に伝わっている本には、平安時代初期の828年(天長5年)に、慈覚大師が延福寺(えんぷくじ)という寺院を建てた、と書かれています。

 その後、鎌倉幕府の五代執権の北条時頼によって天台宗から臨済宗に変わり、名前も円(えん)福寺(ぷくじ)に改められた、と言われています。

 その後は長い間、この寺は荒れ果てていました。

 仙台に城を築いた伊達政宗は、城下町を整備しながら大崎八幡神社や塩竃神社など代表的な寺社を造営・整備しました。

 その中の一つが瑞巌寺です。

 和歌山県の熊野地方から木材を運び、1604年(慶長9年)に着工し、5年の歳月をかけて1609年(慶長14年)に完成。

 瑞巌寺は建てられてから現在まで一度の火事も無く、桃山建築の代表的なものとして国宝や重要文化財に指定されています。

 瑞巌寺の西隣にある円通院に祀られているのは、19歳という若さで亡くなった政宗の孫の光宗です。

 円通院の三(さん)慧(けい)殿(でん)には、光宗が馬に乗った像を納めた、とても美しい厨子があり、国の重要文化財に指定されています。

 観爛亭(かんらんてい)は、現存する数少ない江戸期の桃山建築であり、京都にある伏見桃山城の建物の一部と伝えられています。

 月を見る場所として素晴らしいことから、月見御殿と呼ばれたこともありました。 

 

日本三景と松島

松島は、平安の世から歌に詠まれたり、絵に描かれたりしていたため、その名称はよく知れ渡っていました。

 瑞巌寺や五大堂など、いろいろな寺院が建てられ、松島を訪れる人も多くなっていきました。

松島の名所を歌に詠んだり、名所を宣伝する本も多く出されました。

 その中でも有名なのが、1689年(元禄二年)に訪れた松尾芭蕉です。

この芭蕉の旅日記は『奥の細道』として、現在でも多くの人に読まれています。

 松島が“日本三景”と呼ばれるようになったのは、林(はやし)春(しゅん)斎(さい)という学者が1714年(正徳4年)『日本(にほん)国事跡考(こくじせきこう)』という本の中で、松島、丹後(京都府北部)の天橋立、安芸(広島県西部)の宮島の3つを、素晴らしい景色の場所として紹介したのが始まりと言われています。

 

宿場町から観光地へ

 古くから松島の観光は、塩釜から船で遊覧して松島海岸に着くのが一般的で、かの松尾芭蕉も、このコースをたどりました。海岸には、このような観光客を宿泊させる旅館が当時からあり、現在と同じような様子だったと考えられます。

 一方で、松島の道路は、奥州街道の枝(し)線(せん)である浜街道に属し、そこから吉岡・松山・涌谷・石巻街道の分岐点となっていたため、塩竃神社や金華山参りの際に多くの人が通りました。磯崎には仙台藩の塩田があり、また江戸へ米を運ぶための中継地だったため、塩倉や米倉などがありました。

 このため高城には荷物の積み下ろしなどのために訪れた仙台藩の役人や商人などが泊まる旅館や商人宿、休憩所があり、大変賑やかな宿場となっていました。

当時の松島のお土産は、焼きハゼなどの魚介類をはじめ、福浦島の竹(印鑑用)、せっこく、こうれんせんべいなどの他に、松島焼きという陶器も販売されていました。
  

暮らしの移りかわり

ずっと昔の様子

 100年くらい前までの松島は、平らな土地が少ないところでした。そのため人々は、田んぼを作る平らな土地を切望していました。
 

 今からおよそ340年ほど前、旧第三小学校の近くの海に堤防を作り、新田を開いた人々がいました。

高城川も、この頃に行われた品井沼の干拓によって人の手で作らた川です。

 今から260年ほど前に、古浦に三つの堤防が作られ、新しい田畑ができました。

 古い記録からは、この他、竹谷・北小泉・幡谷などの地域でも、人々が川の近くの低い土地を田にしたことを知ることができます。

 このように人々は自然と戦いながら、利用できる土地を人の力だけで広げていきました。

 

100年ほど昔の様子

100年ほど前、高城・本郷・松島・磯崎・根廻・幡谷・手樽・北小泉・竹谷・初原・桜渡戸の各地域が集まって、松島村となりました。

 その頃の高城は、通りの両側に民家が立ち並び、商店や宿屋などもありました。通りの裏には田や畑が続いていて、葦の生えているところもありました。

 この頃、鉄道の建設が始まり、1890年(明治23年)には、東北本線の松島駅(今の初原「健康館」)が営業を始めました。

これに合わせて道路の整備も行われ、現代ほどではありませんが、多くの観光客が松島を訪れるようになりました。

 

戦争があった頃

 70年ほど前に、激しい戦争がありました。この戦争の前と後では、人々の暮らしの様子が大きな変化を遂げました。

 1944年(昭和十九年)には塩釜―松島間の線路ができ、東北本線は、山まわりと海まわりの2つになって、海まわりの線路は、主に貨物列車が通りました。

また、後に国道45号となる道路の整備も進みました。

 

50年ほど前のようす

 この頃になって、松島では多くの家庭で水道を使うようになりました。

松島町には、昔から飲み水となる地下水が少なく、特に海岸の近くは塩分が多いため、飲み水として使うことができませんでした。

 そこで町の人たちは、きれいな水を安心して使えるように水道を作ろうとしたのです。

1952年(昭和27年)から工事を始め、1954年(昭和29年)には水道がひかれました。

その後も工事は続けられ、今では町内の全ての家庭で水道が使えるようになりました。

 現在、公民館がある場所は、昔は干潟でした。50年ほど前に埋め立てによってできた新しい土地です。

また昔、手樽は手樽湾といって海でしたが、これも同様に、およそ50年前に干拓工事が行われました。

高城川から愛宕山の下にトンネルを掘って水を引き、一面の広大な田に作り変えたのです。

 一方で東北本線は、1962年(昭和37年)に山まわりの線路が廃止されて、現在と同じになりました。

さらには、高城のバイパス道路をはじめ、多くの道路も整備されました。

 この頃にできた水道や新しい土地、鉄道や道路などの交通の整備が、現在の私たちの生活をしっかりと支えています。
  

20年ほど前のようす

 この時代になると、町内の上水道の整備が進められるようになりました。

この頃から高城・磯崎地区を中心に住宅が増え、町の様子が大きく変化してきました。

また観光地として海辺には大きなホテルも建ちました。

そのため、汚れた水の量も増えていきます。これらの汚れた水がどのように処理されていたか、というと、25年ほど前までは、それぞれの家庭から出る汚れた水は、下水路(溝)に流され、そのまま高城川や海に流れていきました。

そのため下水路から嫌な臭いがしたり、ハエや蚊が発生したりして暮らしに悪影響を与えていました。

さらには、海の汚れが進み、カキ養殖などの水産物への影響が、漁業関係者の間で問題にされるようになってしまったのです。

そこで町では1984年(昭和59年)に下水道の施設を作る工事を開始。

1991年(平成3年)には浄化センターの運転が開始されました。下水道施設ではそれぞれの家庭やホテルなどから

1988年(昭和63年)には、松島トンネルの拡幅工事が完成。三陸自動車道は、2002年(平成14年)に仙台東部道路とつながりました。

 このようにして松島町の交通事情は大変良くなったのです。